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「The Billboard Hot 5」 ・74/02/02-3 The Way We Were - Barbra Streisand (追憶 - バーブラ・ストライザンド) ・彼女は、1942年4月24日にニュー・ヨークのブルックリンで生まれた。1962年に歌手としてデビュー。代表曲は「ピープル」、「追憶」等。女優としても活躍し、自身の映画出演作の主題歌を歌ったり、楽曲の提供等もしている。アカデミー賞は、「ファニー・ガール」で主演女優賞を、「スター誕生」で作曲家としてアカデミー歌曲賞と2度受賞している。別々の分野にまたがり受賞しているのは彼女位である。また、複数のエミー賞、グラミー賞、ゴールデン・グローブ賞、及びトニー賞を受賞している。映画監督としては「愛のイエントル」でデビュー。主演・脚本・製作、そして主題歌と5役を務めた。「サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方」はアカデミー賞の作品賞で候補にあがったが、彼女は監督賞候補にならなかった。米国ニュー・ヨーク市のウィリアムズバーグでユダヤ系の家族のもとに生まれ、バーバラ・ジョアン・ストライサンドと名づ付けれた彼女は、生後間もなくしてブルックリンへと引っ越す。グラマー・スクールで文法学の教師をしていた父親のエマニュエルは、彼女が生後僅か15ヶ月の時に亡くなり、継父のルイス・カインドと彼女は不穏な関係であった。母親のダイアナ・アイダ・ローゼンはバーブラが魅力的ではないと感じ、娘にショー・ビジネスを進める事はなかった。此の事が、バーブラが長年、ショー・ビジネス界での数々の成功にも拘らず自分の容姿に劣等感を持ち続けた理由ではないかとされている。1959年に、エラスムス・ホール高校を4番目の成績で卒業。高校ではニール・ダイアモンドと共に合唱部に所属していた。大学へは進学していない。彼女は、「育った時はそこ(ブルックリン)は嫌いだったけれど、今は私のルーツから力を貰っていると感じる」と述べている(2006年10月17日のトロント・コンサートで)。10代の頃にナイト・クラブで歌手としてデビュー。しかし本来は女優志望で、数々のオフオフ・ブロードウェイ演劇に出演していた。当時野心的だった女優ジョアン・リヴァーズと競演した事もある。ボーイ・フレンドだったバリー・デネンがクラブで働く様に支援したため、1960年に、マンハッタンにあるゲイ・バーで演じた事により、歌手として成功を収めた。それと同時期に、ユニークさを出したいと考えた彼女は自身の名前をバーブラに縮めている。1962年に、ミュージカル「あなたには卸値で」でブロードウェイに出演し、その後コロムビア・レコードと契約を結んだ。彼女のデビュー・アルバム「ザ・バーブラ・ストライサンド・アルバム」は1963年に2つのグラミー賞を受賞した。その後、彼女の人気は低迷する事なく、デビュー作から3作目までが同時にビルボードのポップ・アルバム部門のトップ・テンに入った。当時はロックンロールやビートルズがヒット・チャートの大半を占めていた事から、彼女の功績は異例の快挙だと見なされた。ファニー・ブライスの生涯を題材にした、ジュール・スタインとボブ・メリルの音楽による1964年の「ファニー・ガール」は、「あなたには卸値で」におけるバーブラのパフォーマンスを見たスタインが彼女のために制作したブロードウェイ・ミュージカルである。しかし、ショーのプロデューサー、レイ・スタークの妻だったブライスの娘は、バーブラをキャスティングするのを強く反対し、彼女よりキャロル・バーネットの方を好んだと言う。TV出演も多く果たした彼女は、米国のCBS・チャンネルで多くのスペシャル番組に出演。特に最初のスペシャル番組であった1965年の「マイ・ネーム・イズ・バーブラ」は多くのファンや批評家によって賞賛された。彼女は1967年以降舞台には出演せず、1970年代から1990年代前半にかけてはコンサート活動からも遠ざかった。此れはユダヤ系アメリカ人として政治的な姿勢を明確に表明していた彼女への脅迫行為が多発していたためで、以降彼女はレコードと映画を活動の中心とした。歌手としてのキャリアは、彼女は60作以上のアルバムを録音しているが、その殆どがコロムビア・レコード・レーベルから発売されたものである。1960年代に発表された初期の作品は、アイロニックで見事な「幸せの日は再び」を初めとする劇場やナイト・クラブで歌われるスタンダード曲を主とした古典的な表現に徹した作品だと考えられている。1969年からは作曲家としても活動を始め、ロックへの路線変更を試みて試行錯誤する。最終的にリチャード・ペリーがプロデュースした1971年の「ストーニー・エンド」の成功によって、ポップやバラード志向に定着した。ローラ・ニーロが作曲した此のアルバムの表題作は大きなヒット曲になった。1970年代の間、彼女は「追憶」、「スター誕生・愛のテーマ」、「ノー・モア・ティアーズ」、「ウーマン・イン・ラヴ」等、主に彼女の映画のサウンドトラックに使用された楽曲でチャートの首位に輝き、ポップ・チャート上でも際立った存在だった。1970年代の終わりには、米国で最も成功した女性歌手として認識された。彼女のアルバムのセールスは凄まじく、当時彼女より多くのアルバムを売り上げていたのはエルヴィス・プレスリーとビートルズだけであった。1982年に、音楽評論家のスティーヴン・ホールデンは彼女を「フランク・シナトラ以来最も影響力のある米国ポップ歌手」と評している。1980年に、ビー・ジーズのバリー・ギブによるプロデュース作「ギルティ」を発売、彼女自身最大のヒット・アルバムとなった。グラミー賞も受賞した。1985年のアルバム「追憶のブロードウェイ」で、彼女は彼女の原点であるミュージカル的な作風に回帰する。此のアルバムはビルボードの首位を3週連続キープしてトリプル・プラチナとして認証され、思いがけない成功をもたらした。レコーディングのためにスティーヴン・ソンドハイムによって特別に作り直されたミュージカル・ナンバーを収めた此のアルバムは高い評価を受け、グラミー賞で「アルバム・オブ・ザ・イヤー」にノミネートされた。彼女自身も最優秀女性歌手部門において、彼女にとって8度目となる同賞を受賞している。1991年に、「ジャスト・フォー・ザ・レコード」と題された4枚組みのCDボックス・セットが発売された。此のアルバムにはライヴ音源やヒット曲、それに初期から1991年までに録音されたレア音源等、70曲以上が収録されている。1992年頃は、音楽的成功は彼女にとって関心事ではなかった。ビル・クリントンとの関係から、ニューヨーク・タイムズは彼女を再び「最も有力なエンターテイナー」であると宣言した。彼女が行った資金集めのコンサートは、クリントンをスポット・ライトに送り込む手助けをした。クリントンがアメリカ合衆国の大統領に就任した際には、彼女が彼を紹介している。しかしながら、政治活動のために彼女の音楽的キャリアは中断していた。そこで、ツアーが提案され、彼女はそのために2年もの歳月に渡って話し合いを行った。そして、それから1年後の1993年にショー・チューンを集めたアルバム「バック・トゥ・ブロードウェイ」で再び全米チャートの1位を記録すると、同年の9月には27年振りのコンサート・ツアーを行うと発表した。此の限られたツアーへのチケットは1時間未満で売り切れた。また、主要な雑誌の表紙も飾った彼女のツアーを、タイム誌は「世紀の音楽イヴェント」になると予測した。ツアーは全てのメディアにおいて、史上最も大規模な交渉を生む商品となった。チケットの値段は50$から1500$へと高騰し、彼女を史上最も高価なパフォーマーにした。「ザ・コンサート」はその年アメリカ国内で最も高い収益を得たコンサートとなり、2つのエミー賞とピーボディ賞を受賞した。HBOでオン・エアされた録画放送は、HBOの此れまでの30年以上の歴史の中で最も高視聴率を記録したコンサート特番となっている。1999年の大晦日、彼女はコンサートのステージに復帰する。「Timeless」と題された。そして、此れまでのラス・ヴェガスの歴史における単独での歌手のコンサートとしては、最大級の収益をあげる記録を成し遂げた。世紀末の時点で彼女は、デビュー以来各年代で最低2枚1位を記録したアルバムがある、アメリカ最高の女性シンガーであった。ラス・ヴェガスでのコンサートの後、オーストラリア、ロサンゼルスそして、故郷であるニュー・ヨーク等で公演を行うと、彼女は2000年にコンサート活動を停止する。彼女の近年のアルバムには2001年の「クリスマス・メモリーズ」や、大規模なオーケストラの演奏をバックに有名映画の主題歌を歌ったものを集めた2003年の「ムーヴィー・アルバム」等がある。最新作はバリー・ギブとの共演による「ギルティ」の続編「ギルティ・プレジャーズ」(イギリスでは「ギルティ・トゥー」として発売された)で、2005年に世界発売された。2006年2月に、マリブの自宅でトニー・ベネットと共に「スマイル」を収録。10月4日に、フィラデルフィアのワチョビア・センターで始まった6年振りのコンサート・ツアーは「ストライサンド:ザ・ツアー」とのみ呼ばれている。スペシャル・ゲストのイル・ディーヴォがオープニングを勤めた。2006年10月9日に、ニュー・ヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサート。 ジョージ・W・ブッシュ大統領を揶揄するスキットを披露した。スキットの後で野次を飛ばし続ける一人の観客に対し、彼女は「黙れ!」と怒鳴りつけ、後に陳謝したが、「秩序をかき乱すのも芸術家の役割」と付け加えた。2006年10月30日に、同じスキットで、一人のファンが彼女にカップを投げつけた。 此れに対し、マネージャーのマーティン・エーリッヒマンは「此処は自由の国であり自分の意見を述べる権利がある」と回答した。2007年に、13年振りのヨーロッパ・ツアーをロンドン、パリ等で行った。多くのアーティストと同様、バーブラは自分の作品について議論する事を好まない事で知られる。そして収録が終わるや否や、それは「終わったもの」として忘れてしまう事が多いのだと言う。彼女は、多くの彼女の歌は題名すら思い出せないと述べている。日本では一度も来日公演が行われておらず、未だ来日していない大物アーティストの一人である。 映画でのキャリアは、彼女の最初の映画は、ブロードウェイでの最初のヒット作「ファニー・ガール(1968年)」の翻案だったが、芸術的、商業的成功を収め、1968年のアカデミー賞最優秀女優賞を、キャサリン・ヘップバーンと共に受賞する。此れはオスカー初の引き分けとなった。此れに続く2作の映画、ジェリー・ハーマンの「ハロー、ドーリー!(1969年)」とアラン・ジェイ・ラーナーとバートン・レーンの「晴れた日に永遠が見える(1970年)」もミュージカルの翻案であった。4番目の映画はブロードウェイ演劇「フクロウと子猫ちゃん(1970年)」を下敷きにしている。彼女はオリジナルのスクリューボール・コメディーにも出演している。「おかしなおかしな大追跡(1972年)」ではライアン・オニールと共演、『またまたおかしな大追跡』(1974年)及びドラマ『追憶』ではロバート・レッドフォードと共演している。彼女の2番目のアカデミー賞は、「スター誕生(1976年)」の歌「エヴァーグリーン」の作曲家として、オリジナル歌曲賞を獲得している。此の賞を女性が獲得したのは此れが初めてである。1969年に、俳優が資産を確保し自分で映画プロジェクトを興せるようにするため、ポール・ニューマン、シドニー・ポインターと共に、ファースト・アーティスト・プロダクションを興した。彼女のファースト・アーティストとしての最初の出演は、「砂の城・人妻マーガレットの場合(1972年)」となった。1970年の「フクロウと子猫ちゃん」で彼女のトップレスのシーンがあったが、彼女は此れを後悔して全てのフィルムを買い取り、問題のシーンを削除した。ハイソサエティー・マガジンが彼女の胸の写真のオリジナルを出版した時、彼女は同社を告訴した(後に自身の監督作「サウス・キャロライナ」でも撮影中のアクシデントで胸が露になってしまったが、本人はそのシーンを気に入り、本編で使う事にした。しかし、関係者による試写会での反応が余りにも大き過ぎたため、ストーリーの流れを止めてしまうと思い、最終的にはカットされた)。彼女は自分自身の映画を数多く製作し、1972年にバーウッド・フィルムを興した。「愛のイエントル(1983年)」では、プロデューサ、監督、脚本、主演を兼任し、「サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方(1991年)」まで此れが続く。スティーブン・スピルバーグは「愛のイエントル」を傑作と呼んだが、同時に批判も呼んだ。「愛のイエントル」が5つのアカデミー賞候補になった時には議論になったが、主要なカテゴリーである最優秀映像賞、最優秀女優賞、最優秀監督賞の何れにもノミネートされなかった。「サウス・キャロライナ」は、最優秀映像賞を含むより多くの候補になったが、例によって最優秀監督賞の候補には漏れた。2004年に、8年間の空白を破り、コメディー「ミート・ザ・ペアレンツ2」で映画に復帰した。此処でダスティン・ホフマン、ベン・スティラー及び、ロバート・デ・ニーロと競演している。 彼女が手掛けたあらゆる媒体において、彼女は賞を取ってきた。オスカー2回、エミー賞6回、ゴールデン・グローブ賞11回、グラミー賞10回、トニー賞1回、ケーブルエース賞2回、アメリカ映画協会の生涯成績賞、その他数多くの賞を取っている。1995年に、グラミー生涯成績賞を取った。2005年に、彼女の米国でのアルバム売り上げは、女性アーティストで全米トップ・セールス記録を達成した。トニー賞は特別な「此の10年間のスター」を表彰するものであるが、彼女はオスカー、トニー、エミーとグラミーを獲得した数少ない人達の一人である(他にはヘレン・ヘイズ、リタ・モレノ、ライザ・ミネリ、ウーピー・ゴールドバーグがいる)。但し、バーブラのトニー賞は通常の受賞ではなく名誉受賞であるため、受賞者には含まない事がある。 私生活では、彼女は2度結婚した。彼女の最初の夫は俳優のエリオット・グールドで、1963年から1971年まで結婚していた。彼らには一人息子のジェイスン・ゴールドがおり、彼も俳優になっている。彼女の2度目の結婚相手は俳優のジェームズ・ブローリンで、1998年に再婚した。2人の結婚式の模様は克明に報道されている。 彼らの間に子供は生まれていないが、ブローリンには以前の2回の結婚生活で授かった3人の子供達が存在する。 此の作品は、作詞はアラン・バーグマンとマリリン・バーグマン夫婦、作曲はマーヴィン・ハムリッシュである。ビルボード誌では、1974年2月2日に、週間ランキング第1位を獲得(チャート1位は此の週のみ)。ビルボード誌1974年年間ランキングでも第1位。ビルボード誌では、ロック時代(1955年7月9日以降)で、バーブラは、ルル以来2番目となる、女性ソロ・シンガーでの年間ランキング第1位獲得者となった。1973年に公開された、シドニー・ポラック監督の恋愛映画「追憶(The Way We Were)」の主題歌だった。「追憶」は、1973年アカデミー主題歌賞を獲得した。また、彼女は映画「追憶」で、ロバート・レッドフォードと共に主演を演じた。ビルボード誌の集計では、バーブラにとっては、「ウーマン・イン・ラブ」、「スター誕生・愛のテーマに次ぐヒット曲となった。 ●1970年代 - アーティスト別インデックス・A〜F http://37021207.at.webry.info/200301/article_2.html ●1974年 (昭和49年) トップ5・リスト http://37021207.at.webry.info/200309/article_5.html |
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